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どこにいても、誰といても 人を抑えつけることなく、自分を殺すこともなく 人を思いやり、自分も大切にして..... そんなことは不可能のように思い、絶望しかけていた私が そうなれるかも知れない、そうなりたい、そうなる! そんな風に思い始めたのは、3年前のことでした。 いくつかの貴重な体験と、 心に知恵を与えてくれた何冊もの本 踊りや歌で自分を表現すること blogerの皆さんの言葉、そして、書くこと.....。 これらを通して、わたしは少しずつ、 自分の目指した姿に近づいてきているのを感じます。 そして、ひとつ わたしの中にゆるぎない実感として しっかり根づいた事実があります。 それは 人間は誰でも 本来の姿にあるときは 自由で 魅力的で かわいい存在なのだ という思いです。 自由であるということは 何を感じてもいいということです。 あなたもわたしも、何を感じてもいい。 それが怒りであろうと悲しみであろうと淋しさであろうと 人間の感情に、悪いものは無いのです。 それが悪いもののように感じられたり 他人にも自分にも不快な気分を残してしまうのは その感情が自分の中心から出てきたものでないときです。 自分の感情すら自分を騙します。 自分のこころが マトリョーシカ人形のようなものだとします。 このマトリョーシカは ひとつひとつが違う表情のものです。 一番外側の ほほえみ顔のマトリョーシカをとりのぞくと 泣いてるマトリョーシカが入っていたりします。 泣いてるマトリョーシカのもうひとつ奥には 怒りに震えるマトリョーシカがいたりします。 恨めしい顔 何かに怯える顔 淋しさに耐える顔 好奇心に輝く顔 無邪気に喜ぶ顔 色んな顔のマトリョーシカがいます。 もうこれ以上開けられないくらいの 小さな小さな 一番奥にあるマトリョーシカが、ほんとうの自分です。 何重にも入れ子になった人形の 今目にしている一番表面にあるものを ほんとうの自分だと思っている人は多いのではないでしょうか。 自分が何を感じているのかを 自分が分からない なんてこと あるはずがないと思い込んでいないでしょうか。 自分という存在は、うんとうんと深いものです。 自分の中の うんとうんと深いところで ほんとうの自分が「何か」を感じたとき 一瞬よりも早く 自分の中の 別の誰かがそれをうち消して 代わりの「何か」で覆います。 ほんとうの自分の感情でない「何か」を正当化するために どんどん余計なものがくっついて 余計なものがくっつけばくっつくほど 苦しくなり しまいにはその苦しさを誰かのせいにしてしまいます。 誰かのせいにしてもまだ苦しくて その苦しみを取り除きたいばかりに さらに大きな勘違いをして 相手を変えようとやっきになったりします。 自分の一番真ん中にいる自分は ほんとうの思いを分かってもらいたくて苦しいのに どんどんそこから遠ざかることをしてしまう。 感情すら、生まれたままの姿で表出されることのない社会 それはとても悲しいけれど どこかで皆それを知っていて 上辺だけのやりとりを続けながら 淋しい思いを抱いているのではないでしょうか。 家族といるから 友達がたくさんいるから お金があるから それだけで満たされるわけじゃないこと 気づいていながらどうしようもできなくて それでもその満たされなさに負けて 間違った方法で満たそうとしてしまう 人は愚かなものです。 でもその愚かなことを通して、ほんとうの自分に近づくのだとしたら....? どうも違うらしい.....、 こうじゃないらしい.....、 どうも楽しくない.....、 これでは幸せにはなれないらしい.....、 何だか苦しい.....、 あれこれやってみたのに、 いつまでたっても 自分を好きになれない、そう思ったら...... きっとそれは気がつくチャンスです。 足りないものを埋めよう、埋めようとするのではなく 余計なものを取り除いていくことが必要なのだと。 こころ満たしてくれるものを 自分の外側に求めていた その視線を、 自分の内側に向けてみることもできるのだと。 あなたの真ん中に あなた自身に見つけてほしがっている 小さなかわいいマトリョーシカがいるかも知れない。 人は見えないものを見る目をもっています。 もし目の前にマトリョーシカ人形のあなたがいたら その顔が笑っていたとしても その奥に別のあなたがいることを、相手は心のどこかで感じとります。 もしかしたら、心の真ん中どうしが交信しているのかも知れません。 あなたの一番奥にある感情は 言葉でいえば自動詞です。 「誰かに」怒るというのでもなく 「誰かを」責めるというのでもなく そこにあるのは、ただの怒り、ただの悲しみです。 そこにいるのは、ただ怒り、ただ悲しむ あなた自身です。 だから、相手の真ん中から出てきた感情に対しては、 人は嫌な気持ちにはならないのです。 表面に出ている感情の奥に何か別のものが隠れていると、 相手が本心を言っていないこと つまり、嘘をついていることを感じとるから、 接する人は素直に受けとれないのです。 そして嘘をついている本人も どこかでそれを分かっているから 不快な気分が拭えないのです。 その人の真ん中にあるものが、文字通り裏も表もなく 真っ裸のままで、ちょこんと取りだされたときは その顔が怒っていたとしても、愛おしいものなのです。 真ん中にいる自分にたどり着くには ひとつひとつとりはずしていくしかありません。 いきなり一番ちいさなマトリョーシカをとりだすことはできません。 でも...... 激しくて、一見ホンモノそうに見える感情が湧いてきたとき (今の自分のもうひとつ内側にいるマトリョーシカはどんな顔してるだろう?) って想像してあげることができたら.....、 きっと 流れは変わっていくはずだと思うのです ^-^
by Piedrita
| 2005-05-14 12:08
| ほんとうの自分
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