あなたのみなと
2015-03-21T19:00:46+09:00
Piedrita
私をかたちづくるモノとコト
Excite Blog
ここを訪れてくれた方へ
http://puertita.exblog.jp/2825574/
2007-03-13T13:13:00+09:00
2015-03-21T19:00:46+09:00
2005-10-04T13:11:04+09:00
Piedrita
未分類
こんにちは。Piedritaと申します。
あなたのみなと へご訪問ありがとうございます *^-^*
私は 夫の不倫によって、心を粉々に砕かれました。
砕けた心を修復し、
それまでの自分、夫、夫婦のあり方を見つめなおし、
新しい関係を築くことを試みましたが 行き詰まりました。
夫に離婚を切り出した直後の 2005年3月から このブログを書き始めました。
もう私に出来ることは無いように思えました。
もう夫にとって私は大切では無いのだと思っていました。
眠れない夜を、泣きながらキーボードを叩いて過ごしました。
今(2005年10月)、私たちは夫婦を続けています。
お互いに不倫以前よりも愛情を感じ、お互いの気持ちを大切にし、
わだかまりを払う努力を今も続けています。
同じような境遇にある方や、夫婦関係に悩んでおられる方に
少しでも役立つことがあれば幸いです。
尚、7月からは新URLにて、marca-miaのHNで 日々のよしなしごとを綴っています。
よろしければ、そちらにも遊びにいらしてくださいね^-^
Piedrita
2005.10.4.
]]>
新しいブログ
http://puertita.exblog.jp/2179632/
2005-07-01T12:53:00+09:00
2015-03-21T18:59:38+09:00
2005-07-01T12:51:29+09:00
Piedrita
未分類
何もない状態ですが とりあえずの形をつくりました。
新しいHNと 新しいタイトルを つけました。
こちらは 今のところ残すことにしました。
ここでお話したい方は、どうぞここのコメント欄をお使いくださいね ^^
エキサイトブログリンクの一番下に入っています。
タイトルは なみのまにまに
何となく ひらがなが好きで、書いてみたら
あら! な・み・の が入ってる。
何となく あなたのみなと と語感が似た感じになってしまいました。
ナ行とマ行の語感が好きなのでしょうか 私...。
あなたのみなと 愛着のある名前なのですが
最近 演歌のタイトルでおんなじひらがな表記のものがあると知って
ちょっとブルーになりました。
よく考えてみたら確かに演歌にありそうな名前なんだけど...。
それでタイトルを変えたくなって決めたはずなのに
なみのまにまに も演歌の曲名にありそうですね(笑)
ぼちぼち やっていきます。
どうぞ よろしく ^^
]]>
お守り
http://puertita.exblog.jp/2154721/
2005-06-28T03:10:00+09:00
2015-03-21T18:58:38+09:00
2005-06-28T03:09:25+09:00
Piedrita
未分類
今は少し 思いを伝えることをお休みしている私だけれど
「もう辛い思いをしてまで話したくない!」
と私が言ったとき、夫と交わしたメールがお守りになっています。
私から
いつもね、勇気を出して気持ちを伝えても
あなたは怒るばかりで傷つくんだ。
何も感じなかったらいいなと思う。
あなたから見たら私の頑張りが足りないんだろうね。
でも私はちゃんとコミュニケーションとれる夫婦になりたいと思って
頑張ってきたつもりなんだ。
我慢したり諦めたり相手を責めるのは簡単だけど
それじゃ前と同じじゃない?
でも私とあなたは違うから努力を強要するつもりはないよ。
私も少し休ませてね。今まで結構頑張って話をしてきたからさ。
あなたが「仕方ないから話を聞く」んじゃなくて
本気で私のことを分かりたいと思ってくれるまで待つよ。
夫から
Piedritaのが頑張ってるのは分かるよ。
いつも厳しく言いすぎてしまってスマン。
Piedritaの話を聞くと自分の至らなさを思い知るけど、
どうにも余裕が無いのが今の俺なんだ。
俺も一生懸命だからすぐにイラついてしまうんだと思う。
こんなに頑張ってるのにダメか・・・って。
外から見ると頑張りも足りないんだろうね。
そのうち余裕が出来る時が来るのかな?
少しずつと思う。
気長に待ってくれたら嬉しいな...。
私から
あなたに余裕があって
私を受け入れてくれたらいいなぁと思うけど
2人とも今出来る精一杯の事をしているから
どっちがより頑張ってるなんてことは無いと思う。
自分がしてほしいことを相手にしてしまいがちだけど、
あなたが本当に望んでることに応えられるように頑張りたいんだ。
でもその前に私の希望にも応えてよ!って思ってしまうんだよね。
たぶんそれはお互い様だから、とりあえず小休止ね。
でも私は諦めないよ~。
もう前のような関係は嫌だから。
本当の仲良しになりたいんだっ!
夫から
すぐにPiedritaの満足するようには出来ないけど話は聞くよ。
喧嘩になることもあるだろうけどそれも必要なことだから。
色々試行錯誤してみない?
私から
私は心が狭くて些細なコトを気にするちっちゃい人間なのに
あなたの前ではずっと心が広い振りしてた。
でももうそれをやめたいし、
あなたにもホントの弱い私を受け入れて欲しかったんだ。
心の狭い自分をさらけ出すのはとても勇気がいるよ。
さらけ出したうえに拒否されるのはすごく辛い。
今はもうそのショックには耐えられないから少し休ませて。
今はもうトライする勇気が出ないの…。
色々試行錯誤はもう私してきたからさ…。ワガママごめんね(; ;)
私はあなたの思ってることは知りたいからいつでも話してくれていいよ
その時は どちらが正しいとかじゃなくて
「俺はこう思ってる」っていう風に話してね
メール送ってくれて、前向きに考えてくれてありがとう
夫から
わかったよ。
Piedritaの役に立てなくてごめんね...。
夫がここまで言ってくれてるのに、
私はその時、幾度も味わった徒労感で
心のエネルギーが枯れてしまって
頑張ってみないか?という夫に応えることが出来ませんでした。
だけど実際、このあと何度か話をする機会もあったのですが
夫は 面と向かうとどうしても
メールとはまったく逆の態度や言葉を 私にぶつけてしまうのです。
でもメールだけでも
こんなことを言ってくれるようになった夫のことがとても嬉しくて
私はこれをもらったとき 読みながら泣いてしまいました。
夫がメールをくれなかったら
いつも私に怒りをぶつけてばかりの夫が
こんなにも裏腹な思いを抱えていることを知ることができませんでした。
きっとこれは本心なんだろうと思うのです。
こうしてあげたいと思いながらできない自分
そんなつもりじゃないのに傷つけてしまう自分
どこかで、お互いを受け入れることが必要なのだと気づきながら
自分のことでいっぱいいっぱいになってしまって
私を受け入れる余裕が持てない夫
夫が私をつっぱねても つっぱねても
私さえあきらめないでいれば、その間は進んでいるけれど
私が「もうやめた」と言えば
それは心が冷えること、離れてしまうこと
そのことに夫は気づいてきていて
「嫌だけど、そうするしか仕方ないから」話をするのだと言っていました。
まだ 積極的に私を理解しようとか
自分と違う私を認めようとか
そういう気持ちにはなれないようで
私の気持ちを認めることが「負け」のように感じて
自分を売り渡してしまうことのように感じて
その恐さから 気持ちを広く持つことができなくて
自分の主張ばかり まくしたててしまうみたいです。
私は夫婦にケンカが無くなることはないと思っています。
ケンカは、お互いをわかりあうチャンスであるとも思っています。
ケンカをしないのが大人なんだ、と達観するんじゃなくて
大人なんだから 賢くケンカをしたい。
そう お互いが 「これは仲良くなるためのぶつかり合いなんだ」と
わかったうえでのケンカ。
仲直りが前提の ケンカ。
人を認められるようになることは
自分を売り渡すこととは違う。
人を理解することで 自分も 人の輪の中に居場所を持つことができる。
夫はとても淋しい人
とても誤解されやすい人
自分と格闘して消耗して、
ついには病気になってしまうような不器用な人
それがわかっているから
もっと生きやすくしてあげたい。
楽にしてあげたい。
でも 私が我慢するとか 自分を抑えるとか
それによって夫が楽になるのは違うと思っています。
自分も相手も自由になる中でどちらにも居場所のある状態
そんな関係をつくりあげなければ
真の意味で癒される家庭
真の意味で安らげる家庭 は得られないと思っています。
難しいけど
時間はかかるけど
焦らず、結果を急がず、でも確実に進んでいくこと。
ようやくそんな進み方ができるようになってきた気がします。
くじけそうなときは
夫が小さな希望の光を見せてくれる。
だからこれからは 弱音もどんどん吐いていこうかな。
ホントに、今まで頑張ってきちゃったから。
]]>
夫婦は大変です^^
http://puertita.exblog.jp/2154028/
2005-06-28T01:07:00+09:00
2015-03-21T18:56:51+09:00
2005-06-28T01:05:40+09:00
Piedrita
あなたとわたし
久しぶりに自分のことを書く気になりました。
お休みの間も読みに来てくださる方がいて、
何か受け取って頂けたらいいなぁ。
どんな方が来てくださってるんだろうなぁ。
苦しんでいる方だろうか。
淋しい思いを抱えている方だろうか。
何かを求めてさまよっている方なら
何かを少しでも拾っていってくださるといいなぁ。
と、そんなことを考えていました。
ひとやま超えた私でありますが、
夫との仲はなかなかどうしてスムーズにとはいきません。
ケンカもいっぱいします。
先月はまた一晩家出してしまったりもしました^^;
私はケンカをするときはすっごく前向き。
ケンカになるときって、
お互いが自分をわかってほしがってる状態 なのだと知っているからです。
でも夫はそんな風には思えないみたい。
私の思いを穏やかに聞いているのが本当に難しいみたい。
必ず夫の反発からケンカになります。
いつも「自分のことなんて話したくない!」と言ってるのに
私が気持ちを伝え始めると
すぐに話をひきとって夫の主張ばかりになり、
結局は私が夫の話を聞くはめになってます ^ー^ フゥー
夫はまだ 私のことをわかりたい という気持ちより
自分を守りたい気持ちの方が勝ってしまっているんですね。
私は自分のことをわかってほしい気持ちと同じくらい
夫をわかりたい気持ちもあるので
夫の話をうんうん、と聞き
私の気持ちは、受け取ってもらってないじゃないのー!
と欲求不満に陥るときも多々あります。
自分の思い
とりわけ 夫との間で今まで言わなかったことを
これからはわかってもらいたい。
そのために伝えたい。
その気持ちに揺らぎはありません。
時間はかかっても 必ずや 二人のバランスをつりあうものにしていきたい。
自分とは違う存在を認められるようになることで、
夫自身も開放されるのだという確信も持っています。
夫の心を、他人に対して広く開かれたものにしてあげたい。
自分の思いを伝えるのはとっても勇気が要ること。
勇気を振るって伝えても
相手はそのまま素直には受け取ってくれない。
そんな結果が重なると
やるせなく、むなしく、すごく淋しい気持ちになります。
でもどうしてもそこを避けては通れない。
手を替え品を替え、言葉を選んで、タイミングを見計らって、
私は何度もトライし続けてきました。
きつーい言葉を浴びせられて、徒労感を感じることもある。
ぼろ雑巾になったように、虚脱感が襲うときもある。
夫は、いつも心に蓋している人だから。
ケンカになってはじめて、とうとうと 本音を語り出すことが多いです。
その時、私は自分の感情はひとまず置いて
夫の目を見て、「聞いているよ」と体で伝えながら聞かねばなりません。
「聞かねば」とは言っても、頭で考えて義務感でそうしている訳ではなくて
本能的、反射的にそうする癖がついてしまいました。
不思議な感覚です。
あっ、今は聞かなくちゃ、と思うのです。
こちらは欲求不満なので、一瞬不快感を伴うのですが
そうすることが一番なのだ、と体が覚えこんでしまった感じです。
夫が私の気持ちをそのまんま受け取ってくれたなら
そんな嬉しいことはないのですけど
夫の脳には
私の気持ちを聞く→その気持ちに応えなければならない
→気持ちに応えていない自分を、妻は責めている
という図式ががっちり出来上がっているらしく
聞いてくれるだけでいいのよ、
わかってくれるだけでいいのよ、
という私の言葉が届きません。
伝えるための勇気とエネルギー
それは相手と親密になりたいからこそしている努力なのに
何度もそれが否定されてしまう辛さ。
その辛さに負けて、
今は少し心を閉ざしてしまっている私です。
だけど夫は私が二人のために頑張ってきたことを
心の奥ではわかっているみたい。
私が根気よく、伝えてきたことで、
何となくだけど見えてきたものがあるみたい。
私と同じ努力が出来ない夫
それを一番悲しく思っているのは夫自身のようです。
だから今は小休止。
逆戻りじゃなくて、無理をしないための小休止。
あんまり頑張りやの妻相手じゃ
夫も息切れしてしまうでしょうしね...^^;
そして私もあんまり走りすぎると
大好きな夫と距離が開いていきそうでちょっぴり恐いのです。
ずっとずっと
いつまでも一緒に居たい人だから。
]]>
皆さん ほんとに ありがとう ^-^
http://puertita.exblog.jp/1824032/
2005-05-19T10:39:00+09:00
2015-03-21T18:54:54+09:00
2005-05-19T10:35:03+09:00
Piedrita
ほんとうの自分
......今 振り返ると......、
私は結婚以来、少しずつ
本来の「私らしさ」を失ってきていました。
夫の不倫を機に気がつきました。
私は今まで「私らしさ」を引き換えにして
夫の愛情を得ようとしていたのだと。
夫もまた、夫自身の不快感を埋めるために
私を変えようとしてきていました。
そしてお互いに逆のこともやってきていました。
学生時代に、お互いの「らしさ」に惹かれ合ったピュアな私たちは
いつの間にか、お互いの「らしさ」を認め合えない夫婦になっていました。
去年の秋、
姉に泣きながら電話したとき、言われました。
そんなんでいいの?
ダンナのためだけに毎日毎日心をくだいて....!
もっとPiedritaらしくいられるようにしなくっちゃ....!
泣きじゃくりながら
どういうこと?
お姉ちゃん、私らしくってどういうこと?
それは、上手く言えないけどさぁ....。
blogを立ち上げたとき
絶対に、正直に書こう!って心に決めました。
色んな方のblogを読んで
たとえ偏っていても、正直に書いてる方に魅力を感じたからです。
それに 行き詰まっていた私には、
読んでくださる方の客観的な意見が必要でした。
どんなきついコメントも受け入れよう。と覚悟して始めました。
厳しい意見を頂戴したとき、
生半可に書いてる記事では、素直に受け入れられないと思ったのです。
精一杯自分のこころに近い言葉を選んで書くことで
皆さんの忌憚のない意見を得られると思ったのです。
幸いと言うべきか
ここへ来てくださる皆さんは暖かくて、やさしくて
期待に反して(?ごめんなさい:笑)
正直、ぬるま湯に浸かってしまいそうになりました。
毎回記事を書くたびに
送信ボタンをクリックするのにすごい勇気が必要でした。
今読み返すと、なんてことはない記事ばかりでしたが
私は自分がすごく偏った人間だというコンプレックスがあったので
こんな事を書いてどうしよう.....!とか
読んで気に入らなくて非難する人が多いだろうな....!とか
きつい意見も覚悟していたものの、
あまりに思いがほとばしって、自分でも筆が走りすぎてしまうこともあり、
投稿したあとは、いつも、いつも、ドキドキしていました。
でも皆さんは、暖かく受け入れてくださった。
刺激になる言葉をたくさんくださった。
私のつたない文章を、深く読み込んでくださった。
あるときは、顔も知らない私に
Piedritaさんらしい ^ ^
と声をかけてくださった。
Piedritaさんらしい ^ ^ という言葉には、
余計な評価も、良し悪しの判断も、非難も容認もなく
ただ 私「らしさ」を見つけてくれている
そんな優しさがありました。
そしてそのおかげで、
私は大きなプレゼントを頂きました。
今まで自分を鍛え、いじめ、変わろうとしてきた自分が
自分に正直でいいのかもしれない、と。
本来の私をとりもどせるかもしれない、と。
そう、変わろうとするのでなく、
私は 私で いいのだと。
皆さんから自信を与えてもらいました。
blogは、生のやりとりではないから、
実生活で正直であろうとすることは、大変なことだと分かっています。
けれど、気づいたのです。
自分の素直な感情に、良い悪いはなく
必要なのは、出し方を工夫することなのだと。
幼い頃から 私は
他人に合わせて自分を変えなければならない
というプレッシャーをずっと感じてきました。
ありのままに振る舞ってそれが受け入れられなかったとき
そのありのままの自分がいけないのだと思い込んでしまいました。
自分の真ん中のままでいてはいけなくて
自分の思い方も感じ方も、変えなければいけないと思っていました。
そして、より多くの人に受け入れられるように
万人に好かれるように と
自分の個性をなくしていきました。
今は
個性とか魅力とかは、自由さの中にあって
その個性や魅力は、幼い頃から 変わらず自分の中にあるんじゃないだろうか
と思っています。
大事なのは、その出し方なんじゃないだろうか。
出し方を身につけていくことが大人になるということなんじゃないだろうか。
そうすれば、自分を抑える必要はなくて
いつも真ん中に近い自分でいられるから
自分のことでいっぱいいっぱいになって余裕をなくして
他人を許すことができない、なんてことも
減っていくんじゃないだろうか。
そう思っています。
物語の主人公たちは、皆自分さがしの旅に出ます。
でもラストでは必ず、自分は「今ここにある自分」であることに気がつき
大きな感動と喜びを感じます。
今の私は、そんな気分です ^-^
皆さん ほんとうに ありがとう ^-^
たぶん 一ヶ月ほど 投稿をお休みします。
先日書いたように、コメントのお返事はさせて頂きます。
皆さんのところへもおじゃまします ^-^
私の そのとき そのときの
ありのままを受け入れてくださって ほんとうに ありがとう。
Piedrita
PS: 先日 誕生日を迎えました *^^*エヘヘ
]]>
ほんとうの自分(8)
http://puertita.exblog.jp/1822687/
2005-05-19T03:15:00+09:00
2015-03-21T18:53:45+09:00
2005-05-19T03:11:51+09:00
Piedrita
ほんとうの自分
自分の真ん中に近づくって、ちょっと大変なこと。
わたしも地道に(笑)ひとつひとつ、
「内側から現れてくる自分」を認める癖をつけているところです。
自分って、そんなたいそうな人間じゃないってこと
自分って、野放しにしたところでそんなに悪さをしないってこと
自分って、結構面白いやつなんだってこと
自分って、かなり小心者だったってこと
自分について発見することが少し楽しくなってきました。
自分の憧れている形とは違うけど、
ほう.....そんな味のある曲線を持っていたのネェ....!とか
うんっ?なかなか骨があるではないの!とか自画自賛することもあったり。
ヒトごとのように自分を見つめだすと
不思議なことに自分について悩むことが無くなってきました。
以前はよく、こう思ったものです
「こんなことも出来ないなんて」
「こんな小さなことで苛立つなんて」
「こんな自分勝手な考えをもつなんて」
ああ.......なんてダメな自分。って。
最近面白い現象に気がつきました。
自分の中で黒い感情がうずまいたとき、
それを感じながらも、普通に人と接することができるようになってきたのです。
ああ、今わたし苛ついたな、とか思いながら、
思った時点で自分に向かって
「あなたはそういうこと、苛ついちゃうのネェ....^-^ 」
「子供みたいだけど、それがワタシなのネェ.....^-^ 」
心の中で へぇー、へぇー、って他人事のように言ってる自分がいます。
今 ここに 二人の人間がいるなら
この へぇー、へぇー、を お互いにやることで
とても親密になれるし
お互いがお互いの真ん中に近づきやすくなります。
一人だけで何とかしようとするより何倍も効果的です。
一人だけで自分を認めていくといってもちょっと不安です。
大切な人が ありのままの自分を受け止めてくれたら
お互いに勇気をもらえます。
誰かが.....それが親密になりたい相手であるなら、尚さら.....!
今の自分を分かってくれたなら。
相手が酷いことをするのは 許せなくても。
酷いことを思ってしまう わたしを
酷いことを思ってしまう あなたを 許してくれるなら
その二人は、どんどん鎧を脱いで 真ん中に近づいて行けます。
あなたの真ん中にも。
わたしの真ん中にも。
今まで、許されないと思い込んで、
鎧を脱ぐ勇気が出なかった人でも 安心感があれば。
勇気をもって「こんなにもダメなわたし」を差し出すことができます。
たとえばその相手が人生のパートナーだったら
長年連れ添う間に「こんなにもダメな自分」のことを、
相手はうすうす見えていたでしょう。
だから、今さら失望することもないはずなんです。
むしろ、やっと「自分のダメさ」を素直に口にできるようになったあなたを
愛おしく思ってくれるはずです。
あなたからも、大切な相手に教えてあげましょう。
何を思ったって感じたって、それ自体は悪いことじゃない。
それを素直に認められるかどうかなんだということを。
それを伝えるのは、あなたの目。
それを伝えるのは、あなたのリラックスした様子 ^-^
それを伝えるのは、あなたの愛情のこもった相づち。
それを伝えるのは、あなたがそっと重ねた手。
諭すのではなく。
評価するのではなく。
どう転んだって、
最後にたどりつくのは 自由で 魅力的で かわいい存在 なのです。
相手があなたの前で安心することさえできれば。
性善説が過ぎるでしょうか......?^-^
はい、もちろん。
自分でも 変な自信もってしまったな、って思っています。
こんなに人を、自分を好きになるなんて ^-^
私も、去年はそんなこと言ってられませんでした。
気が済むまで自分をいじめ相手を責め、
道標のない「けものみち」をがむしゃらに踏みしだき、
あなただけはと思っていた夫の弱さと身勝手さ
わたしだけはと思っていた自分の恨みがましさと依存心
嫌というほど見せあって、
お互いの自覚の無さを痛感して
お互いに自分の不快感の責任をなすりつけあって
それでなお(だからこそ?)たどりついた結論です。
誰にでもあてはまるとは言いません。
私が、感じていることだから、それでいいんです。
でも見つけてしまって嬉しいから 大きな声で皆に伝えたいのです。
四つ葉のクローバーを見つけた幼い子どものように。
人間の真ん中には 自由で 魅力的で かわいい存在......
......ほんとうの自分 が いるんだよぉ〜!! ってネ ^-^
]]>
ほんとうの自分(7)
http://puertita.exblog.jp/1822172/
2005-05-19T01:39:00+09:00
2015-03-21T18:52:34+09:00
2005-05-19T01:35:53+09:00
Piedrita
ほんとうの自分
こころの重なりを
ひとつずつ違う表情のマトリョーシカにたとえましたが
実際は人間のこころはもっと複雑です。
重層的であるだけでなく、
たくさんの矛盾を含んでいます。
たくさんの 感情の鎧をはいで現れた
心の真ん中にあるほんとうの気持ち
それさえも一色ではなくて
時に相入れないはずの複数の感情を同時に抱えていたりします。
人間はそもそも矛盾を抱えた存在だからです。
誰もが、自分のこころに天使も悪魔も、住まわせている。
誰もが、喜怒哀楽すべての感情を持ち合わせている。
時と場合によって、
その人の個性によって
どんな色が浮き立ってくるかの差があるだけです。
矛盾をどうにかしようと思わなくていいのです。
揺らぎのない、一色だけの人間は魅力的とは言えないのだから。
今の自分の ひとつ内側の自分が、あぶり出しのように見えてきたら
どんなにそれを認めたくなくても、それが自分なのだと観念してしまいましょう。
そうすることで、ひとつ鎧がはずれます。
ひとつ鎧がはずれれば、もうひとつ内側の自分も現れやすくなります。
新しい自分が内側から現れる度に 嫌な気分になるかもしれません。
それでも、自分の中にいる鬼も悪魔も、認めてしまいましょう。
一人ずつ受け入れてあげましょう。
許してあげましょう。
自分を許すのを邪魔しているのは プライド と 恥ずかしさ です。
小さなことでくよくよしたり
小さなことで腹を立てたり
小さなことで人を妬んだり
そんな自分を垣間見てしまったとき
自分はもっと高い人格の持ち主だと思いたいばっかりに
こんなに心が狭い人間だったと認めたくないばっかりに
自分の中から出てきた 弱さ や 幼さ を否定するために
誰かに責任を負わせようとするところへ戻っていってしまう人もいます。
頭では、理想とする自分をいくらでも思い描けます。
大人でありたい、人格者でありたい。
些細なことに動じない自分でありたい。
でも頭が考えるようには 心は感じられないのです。
心が感じることは、感じた時点で、すでに生まれてそこにあるのです。
感じたことを 無かったことにしないで、
感じたその場で 認めてあげることで、
鎧をまとう必要はないのだと、
自分に教えてあげる必要があるのです。
弱さ 幼さ は、罪ではありません。
弱さ 幼さ は、それ自体、悪いものではありません。
悪いのは 弱さ 幼さ を、誤魔化そうとする行為です。
自分は弱い、自分は幼い、と認めてしまえば、それを埋める必要はありません。
自分の弱さ幼さを認めたぶんだけ、謙虚になれるし、人も許せるようになる。
人を許せるようになるということは 心が広がるということです。
パラドックスみたいですが、それによって心の広い人間に近づきます。
自分を高みにおいたままで 人を包み込める人間でありたい と願うのは
それは 単なるプライドです。
自分の人格は損なうことなく、
相手にだけ、プライドを捨てろと要求しても、相手は素直になれないでしょう。
人格に高低があるとするなら
より早くプライドを捨てられる人の方が潔い、とは言えるかも知れません。
自分をよく見せようとする自意識を捨てたとき
人の心を揺さぶる芸術が生まれます。
人はそこに、打算のない人間の姿を見るのです。
日常生活でも、これと同じレベルのことを体験できます。
恥ずかしさを乗り越えましょう
プライドを えいやっと脱ぎ捨てましょう
この二つが一番固くて厚い鎧です。
この二つの鎧を取りのぞくことができたら
ほんとうの自分に、よりいっそう近づけるはずです。
そして、
あなたの大切な人の真ん中にあるものも きっと 見えやすくなります。
]]>
ほんとうの自分(6)
http://puertita.exblog.jp/1777458/
2005-05-14T12:08:00+09:00
2015-03-21T18:51:51+09:00
2005-05-14T12:04:52+09:00
Piedrita
ほんとうの自分
どこにいても、誰といても
人を抑えつけることなく、自分を殺すこともなく
人を思いやり、自分も大切にして.....
そんなことは不可能のように思い、絶望しかけていた私が
そうなれるかも知れない、そうなりたい、そうなる!
そんな風に思い始めたのは、3年前のことでした。
いくつかの貴重な体験と、
心に知恵を与えてくれた何冊もの本
踊りや歌で自分を表現すること
blogerの皆さんの言葉、そして、書くこと.....。
これらを通して、わたしは少しずつ、
自分の目指した姿に近づいてきているのを感じます。
そして、ひとつ
わたしの中にゆるぎない実感として
しっかり根づいた事実があります。
それは
人間は誰でも 本来の姿にあるときは
自由で 魅力的で かわいい存在なのだ
という思いです。
自由であるということは
何を感じてもいいということです。
あなたもわたしも、何を感じてもいい。
それが怒りであろうと悲しみであろうと淋しさであろうと
人間の感情に、悪いものは無いのです。
それが悪いもののように感じられたり
他人にも自分にも不快な気分を残してしまうのは
その感情が自分の中心から出てきたものでないときです。
自分の感情すら自分を騙します。
自分のこころが
マトリョーシカ人形のようなものだとします。
このマトリョーシカは
ひとつひとつが違う表情のものです。
一番外側の ほほえみ顔のマトリョーシカをとりのぞくと
泣いてるマトリョーシカが入っていたりします。
泣いてるマトリョーシカのもうひとつ奥には
怒りに震えるマトリョーシカがいたりします。
恨めしい顔
何かに怯える顔
淋しさに耐える顔
好奇心に輝く顔
無邪気に喜ぶ顔
色んな顔のマトリョーシカがいます。
もうこれ以上開けられないくらいの
小さな小さな 一番奥にあるマトリョーシカが、ほんとうの自分です。
何重にも入れ子になった人形の
今目にしている一番表面にあるものを
ほんとうの自分だと思っている人は多いのではないでしょうか。
自分が何を感じているのかを 自分が分からない なんてこと
あるはずがないと思い込んでいないでしょうか。
自分という存在は、うんとうんと深いものです。
自分の中の うんとうんと深いところで
ほんとうの自分が「何か」を感じたとき
一瞬よりも早く
自分の中の 別の誰かがそれをうち消して
代わりの「何か」で覆います。
ほんとうの自分の感情でない「何か」を正当化するために
どんどん余計なものがくっついて
余計なものがくっつけばくっつくほど 苦しくなり
しまいにはその苦しさを誰かのせいにしてしまいます。
誰かのせいにしてもまだ苦しくて
その苦しみを取り除きたいばかりに
さらに大きな勘違いをして 相手を変えようとやっきになったりします。
自分の一番真ん中にいる自分は
ほんとうの思いを分かってもらいたくて苦しいのに
どんどんそこから遠ざかることをしてしまう。
感情すら、生まれたままの姿で表出されることのない社会
それはとても悲しいけれど
どこかで皆それを知っていて
上辺だけのやりとりを続けながら
淋しい思いを抱いているのではないでしょうか。
家族といるから
友達がたくさんいるから
お金があるから
それだけで満たされるわけじゃないこと
気づいていながらどうしようもできなくて
それでもその満たされなさに負けて
間違った方法で満たそうとしてしまう
人は愚かなものです。
でもその愚かなことを通して、ほんとうの自分に近づくのだとしたら....?
どうも違うらしい.....、
こうじゃないらしい.....、
どうも楽しくない.....、
これでは幸せにはなれないらしい.....、
何だか苦しい.....、
あれこれやってみたのに、
いつまでたっても 自分を好きになれない、そう思ったら......
きっとそれは気がつくチャンスです。
足りないものを埋めよう、埋めようとするのではなく
余計なものを取り除いていくことが必要なのだと。
こころ満たしてくれるものを 自分の外側に求めていた その視線を、
自分の内側に向けてみることもできるのだと。
あなたの真ん中に あなた自身に見つけてほしがっている
小さなかわいいマトリョーシカがいるかも知れない。
人は見えないものを見る目をもっています。
もし目の前にマトリョーシカ人形のあなたがいたら
その顔が笑っていたとしても
その奥に別のあなたがいることを、相手は心のどこかで感じとります。
もしかしたら、心の真ん中どうしが交信しているのかも知れません。
あなたの一番奥にある感情は 言葉でいえば自動詞です。
「誰かに」怒るというのでもなく
「誰かを」責めるというのでもなく
そこにあるのは、ただの怒り、ただの悲しみです。
そこにいるのは、ただ怒り、ただ悲しむ あなた自身です。
だから、相手の真ん中から出てきた感情に対しては、
人は嫌な気持ちにはならないのです。
表面に出ている感情の奥に何か別のものが隠れていると、
相手が本心を言っていないこと
つまり、嘘をついていることを感じとるから、
接する人は素直に受けとれないのです。
そして嘘をついている本人も
どこかでそれを分かっているから 不快な気分が拭えないのです。
その人の真ん中にあるものが、文字通り裏も表もなく
真っ裸のままで、ちょこんと取りだされたときは
その顔が怒っていたとしても、愛おしいものなのです。
真ん中にいる自分にたどり着くには
ひとつひとつとりはずしていくしかありません。
いきなり一番ちいさなマトリョーシカをとりだすことはできません。
でも......
激しくて、一見ホンモノそうに見える感情が湧いてきたとき
(今の自分のもうひとつ内側にいるマトリョーシカはどんな顔してるだろう?)
って想像してあげることができたら.....、
きっと 流れは変わっていくはずだと思うのです ^-^
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ほんとうの自分(5)
http://puertita.exblog.jp/1756672/
2005-05-12T00:20:00+09:00
2015-03-21T18:51:02+09:00
2005-05-12T00:16:28+09:00
Piedrita
ほんとうの自分
大学を卒業し、私は遅いスタートではありましたが
俳優を職業にしたいと考えました。
大好きな芝居を一生つづけていくには 職業にするしかない、と思ったのです。
この思い込みが悲劇を生んで、バカなことに、ある人に騙され、
最終的には全財産と家財道具一切をとられてしまいました。
そのことでは周りに本当に迷惑をかけましたし、今の夫もその一人です。
やっとのことでその人から離れたとき、
なぜそんな過ちを犯してしまったのか、随分考えました。
そして
自分の欲が深かったばかりに、
同じように欲深い人と波長があってしまったのだ と納得し、
これからは、欲は二の次で生きていこう と心に決めました。
もともと名誉欲も金銭欲も薄い私が、
そんな生き方をすること自体、無理があったのだと分かったのです。
それから10年が過ぎたとき、
ふと気になって、その人の名前を検索してみました。
そしたら、何とその人は、画家になっていたのです。それもかなり有名な。
そう言えば絵が趣味だったな....ということをおぼろげに思い返しました。
その人の絵は、見た人が癒されると評判を呼んでいました。
私をどん底にまでたたき落とし、
その人から離れても数年は、
どこかで待ち伏せて殺してやりたいと 何度も 何度も 思った相手です。
その人の描いた絵で、癒されるなんて....。
私はその絵を見てみました。
不思議です。
本当に素直に、いい絵だな、と思いました。
当時私はその人に殺されるほどの恐怖を味わいました。
なのに、その絵には、溢れんばかりの優しさがありました。
見つめました。
10分もの間 くぎづけになって見つめました。
そして
「わたしは、この人をゆるす。」
と声に出していました。
10年経っていたからでしょう。
でも10年前を思い出したとき、
欲にまみれたその人の目には、
深い淋しさが宿っていたことを思い出しました。
そしてあの絵を見たとき
あんなひどいことが出来る人なのに
あんなひどい人なのに
そのひどい人の中に、こんなにも美しい部分があったのだ。
そう素直に感じることができたのです。
自分でも不思議な感じでした。
私は田舎者で、
東京に来てからの数年間は
都会で欲にまみれて生きる人間というものに失望しまくりました。
それなのに 自分もいつしかその欲のとりことなっていました。
その人に会って私は
「世の中には完全な悪人がいる」ということを知ったと思いました。
人を信用してはいけない、と思いました。
つけいられてはいけない。
賢い目を持たなくてはいけない。
甘いささやきに寄りかかってはいけない。
いくつかの処世術を
おかげで身につけることが出来ました。
心が荒れていれば その隙間に忍び込む悪魔が必ずいること
その悪魔は 自分の心の鏡のようなものであること
欲に走っては道を誤ること
自分の価値観に従うことの大切さ
身をもって危ない目に遭わなければ
私というやつは、それに気がつけなかったのです。
10年後に 同じその人から
「完全な悪人などいない」と気づかされました。
因縁を感じずにはいられません。
よく、死刑囚が信仰に目覚めたり
獄中での交流で別人のように変わるような話を聞きます。
私は、悪の限りを尽くした人間が
そんな風に変わることはあるだろうと思います。
いえ、悪の限りを尽くした人間だからこそ、
もともと生きる上で業が深いとも言えるのだと思います。
もしかしたら、順風満帆に生きてきた人よりも、
いったん生まれ変わったら
人のために生きられる可能性を秘めているのかも知れません。
ただそれは、己と向き合い、己の罪を悔い、己の無力さを知り、
苦しみを授かりものと受けとめることができるなら、という条件つきですが。
あの人が、そんな過程を経て 今ここへたどり着いたのであって欲しい。
もう若い人達を食い物にせずに 生きているのであって欲しい。
心からそう思います。
それが あの人にとっても 私にとっても
幸せのはずだから。
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ほんとうの自分(4)
http://puertita.exblog.jp/1748388/
2005-05-11T02:17:00+09:00
2015-03-21T18:50:09+09:00
2005-05-11T02:13:43+09:00
Piedrita
ほんとうの自分
演技を勉強していた当時、
稽古場でそれぞれの演技を検討し合っていたのですが
私には この時間はホントに恐ろしいものでした。
皆の前で演技して、まな板の上の鯉になって
あーでもないこーでもないとダメ出しされる。
いくら上手くなる為とはいえ、皆の前で先生からケチョンケチョンに言われたり。
若い女性って、どこか自信過剰なものですが
その自信を見事にうち砕かれ、自分を否定されるかのような恐さがありました。
ところが観る側にまわると、今度は気が大きくなって
自分のことを棚にあげて偉そうに他人の演技を批評してました。
あの頃はほんとに生意気で、先生にもよく注意されました。
でも私は「正直に言わなきゃしょうがないじゃん」と思っていたのです。
自分は人の批評にびくびくして
「きついこと言わないでね」というオーラを出しまくっていたくせに
他人のこととなると容赦無しでした。
「だって自分のことを棚に上げなかったら、正しい批評なんて出来ないじゃん」
そう思ってました。
いつの頃からか、ほんとうに演技が上手くなりたくて、
その為にはどうやら、自分が人間として成長しなくてはならないと気づきました。
演技にはその人自身が表れるのだ、という恐さを知ったのです。
自己満足だけの、みっともない演技はしたくない。
そのためには、辛くても自分を客観的に見なければならない。
他人の目で見た自分を知るために、皆の意見をきちんと受け止めよう。
そう思いました。
それからしばらくたって
ある時、仲間の演技を観ていました。
皆が順番に感想を言っていき、私の番がきたとき、
感想を言いながら、一生懸命言葉を選んでいる自分に気づきました。
いつもの早口でもなく、笑顔でもなく、低く、ゆっくりした声で話していました。
皆も、いつもよりシーンとして、じっとこちらに耳を傾けてくれているようでした。
言い終わったとき、先生が
どう思う?コイツ(私のこと)は、今言ったこと、
自分自身に対しても言ってるんだと思うけど。
と言いました。
皆がうん、うん、とうなづきました。
今、夫と話しているときに
同じような感覚になるときがあります。
そんな時はたいてい夫も静かに耳を傾けてくれます。
どちらの時も
あなたに 自分の感じたことを伝えたい という思いと
でもそのことで あなたを傷つけたくはないんだ という思い
そのふたつの気持ちが声にのって 相手に伝わっているような気がします。
それに、自分が発した言葉を自分も聞いているような感覚があります。
相手に言った言葉が自分にも、言った瞬間に返ってくるのを感じます。
それを噛みしめながら話すようになりました。
20歳のあの頃 傲慢だった私は
自分以外の他人も一生懸命生きているんだということを
認めていなかったんだと思います。
不思議なことに、
自分が他人の意見を 苦しいながらも敢えて受け入れようとしたときに
受け入れることの困難さを痛感し、
同時に、人に自分の意見を押しつけていた自分の醜さも見えてきた。
逃げているうちはそれに気がつくことが出来なかったのです。
人の意見も、聞いてる振りだけで 本当には聞いていなかったのです。
口で「そうですね」と言っても
それは正直な気持ちじゃ、無かった。
人の意見を受け入れられない子供だと見られたくないばっかりに
聞いてる風を装っていただけ。
正直って何だろう。
「正直に言ってるだけじゃん」と開き直っていた私。
自分に都合のいい部分だけを「正直」と言ってたんじゃないだろうか。
人の言葉を聞いてる振りしていた自分が
「本当に」聞こうと決心したときに
「言動一致した自分」になった。
虚勢を張っていた自分ではなく 正直な自分になった。
「強がっていたワタシ」が「正直なワタシ」に変化したとき
周りは私の言葉に耳を傾けてくれた。
正直な人間には 周りも心を開いてくれるんだ。
正直な姿は 他人の目に好ましく映るものなんだ。
人と張り合うことをやめたとき
自分が小さくなったような気がするけれど
人は 人の大きさを見ているのではなくて
人の柔らかさを見ているんだな。
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ほんとうの自分(3)
http://puertita.exblog.jp/1739009/
2005-05-10T02:55:00+09:00
2015-03-21T18:49:26+09:00
2005-05-10T02:52:09+09:00
Piedrita
ほんとうの自分
演技の勉強を重ねる中で、
お客さんはどんな演技にリアリティを覚え、
どんな演技に共感し感動するのだろう....。
そんなことをずっと考えていました。
色んな役者さんの演技を観察するうちに
「声」の重要性にいきあたりました。
その頃、ボイストレーニングに通っていたのですが
感情のこもった、それでいてよく通る声を出すには
体に余計な緊張があると上手くいきません。
大きな声を出そうと思えば思うほど
その意気込みがジャマになって、喉に力が入ってしまいます。
子供があんなに小さな体をいっぱいに響かせて声を出すのは
そこに余計な意図が働いていないからです。
「さぁ、大きな声で呼んでごらん」なんて余計なことを言おうものなら
リキんだぶんだけ、いつもの半分ぐらいの声量になってしまいます。
何も考えずに「おかーさーん」と呼ぶとき、
子供は「大きな声を出す」ことを目的にしているのではなく
全身で「お母さんを呼んでいる」ただそれだけなのです。
その時初めて、目的に叶った、澄んだ声が出ます。
訓練を重ねるうちに、私は自分の声の変化に気づきました。
役の気持ちが体に入って、自然にセリフが出てくるときと
「演じる」ことに注意が向いてしまっているときでは
声のとおり道や音色が違うのです。
声帯が強いとか、滑舌がいいとか、腹式呼吸だとか、そういうことではなくて
そう、まさに「その役の人物に息が吹き込まれるよう」に感じました。
本物の感情がのった声というのは、心を揺さぶるもんだなぁ.....!
他人の演技を観ていても
だんだんその種の声に体が反応するようになり、
良い声を聞くと鳥肌がたって
体の中が振動するのを感じるようになりました。
ぐっとくる、とかじーんとする、とか言うときの、あの感じです。
今、夫と話をするときに、
この経験はとても役立っています。
お互いにとても敏感な体質である私たち夫婦にとっては
邪心を混ぜずに、シンプルに「自分の気持ちを伝える」ことがとても大切です。
お互いの声のひびきの中に、少しでも相手を責める気持ちや
自分の方が正しいのだという気持ちがあると
相手はたちまち反発してきます。
自分の発言を振り返ってチェックするときの基準にもなるし
夫から本音が出てくる時は声のひびきが変わるので、
深い音色が出てきたらあとは聞くだけです。
なんだか楽器の演奏にも通じますね^-^
楽器を奏でるにはテクニックはもちろん必要なのですけど
「同じ構造の楽器から、どうしてこうも魂を揺さぶる音が出るのだろう....!」
そう思わせてくれる演奏家っていますね。
私は、演奏家の体の状態(リラックスして魂の震えが伝わりやすい状態)が
楽器の振動と調和して、あんな響きが出るのでは.....と思っています。
..........話を私の体験に戻しますが
あるとき、養成所での稽古の際に
私は「怒り」を表現することが どうしてもできなかったのです。
演出家の先生が
「まだ本当の怒りが出てきていない!もっと怒れ!」
と、ずいぶん粘ってくれてました。
その時私は、自分の中に怒りがあることを感じていました。
ただそれを解き放つことが出来なかったのです。
先生が「もっと!!」と言ってくれなかったら
そこそこの表現で満足してしまっていたと思います。
先生がたきつけてくれたおかげで、
「ああ、もっと出していいんだ!」と思えました。
そしたら突然、
自分でも驚くような、腹の底からの、吼えるような声が出て
壊れた噴水のように溢れる怒りを 私は出るがままに解き放っていました。
その時出てきた「怒り」は
いわゆる「ヒステリー」とは別のものでした。
演技中は無我夢中だったのですが、落ち着いて振り返ると
あれだけ激しい怒りでも 客観的にみて嫌な感じはないのです。
怒りは自分にとっても他人にとっても不快なもの
そう思っていた私には
自分が抑えてきた負の感情が、とても新鮮なものに思えました。
怒りには色んな種類のものがある。
その中には、魂を揺さぶるような、感動的な「怒り」
善悪でとらえられない「怒り」というものもある.......。
不思議なことに、その怒りの中に愛や、悲しみさえ感じるような気がする......。
何かが見えたような見えないような気持ちでした。
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ほんとうの自分(2)
http://puertita.exblog.jp/1710585/
2005-05-07T10:09:00+09:00
2015-03-21T18:48:40+09:00
2005-05-07T10:09:20+09:00
Piedrita
ほんとうの自分
実は20代の頃、私は役者を目指していました。
演技することは 私にとっては必然のようなもので
それが無いと生きられないというくらいのものだったと思います。
実生活よりも演技をしている時のほうが現実感がありました。
その当時も自分でも自覚していましたが
「演技ならば、何をしても許される」という快感にはまってしまっていたのです。
自分ではなく これは役の上の人物がやっていることだから
うんと泣いてもいいし
怒りにまかせてどなってもいいし
気に入らない人を思う存分いじめたりしてもいい
普段の生活の中では良しとされない感情
人前で出しにくい負の感情も 舞台の上では求められる。
お客さんは感情豊かな人間の姿を見たいと思っているのだから
そうしたものがリアルに表現されているほど、喜ぶのです。
現実の生活では、人は少しくらい理不尽なことがあっても
それを怒ったり悲しんだりすることに慣れていません。
素直な反応ができなくなっているのです。
たとえば通りすがりの誰かに失礼なことを言われても
その場では言い返せず、あとでふつふつと怒りが湧いてきたりします。
皆そういう鬱屈の中に生きているから
芝居を観て間接体験することで、開放感を得るのです。
でもここでひとつ条件があって
観ている人が楽しめる為には
・舞台上の人物に魅力を感じられること
・その人物が実在すると錯覚できるくらいのリアリティがあること
あ、実際には条件はふたつですね(笑)重なる部分もありますが。
そう、このふたつが必要なのです。
①舞台上の人物に魅力を感じられること.......。
それはもちろん、芝居の質によっても違うのですが、
少なくとも私が目指していたのは
たとえ悪人でも、人間味を感じさせる演技でした。
観客はシビアで、そういう事をとても敏感にを嗅ぎとります。
悪役に限らず、善人役も、あまりに演技が薄っぺらいとしらけるものです。
ただまっさらな善意だけの人間でなく、
悪感情もありつつ、それに打ち勝とうとする姿に人間味を感じるんですね。
悪人役もそうで、だいたい悪人ていうのは 欲にからめとられた存在です。
欲に目がくらむばかりに悪さをしたり、
自分を守るために人に迷惑をかけてしまう弱さが根底にあります。
観ている人は、その弱さの部分に共感するんですね。
これはひっくるめるなら、人間の厚みを表現しなければならないということです。
②その人物が実在すると錯覚できるくらいのリアリティがあること.......。
ひとつめと重なる部分もありますが、
これは役者の「自意識」の問題がとても大きいです。
もともと、役者をやりたいなんていう人は
人に注目されたいとか 認められたいとか
そんな いわゆる「スケベゴコロ」のある人が大半です。
成熟した人間は、そんな風に特別自己表現の場を持たなくても
日常生活で充分自分を保てているものです。
この『スケベゴコロを感じさせない』ということは
若い人では本当に難しいことです。
もともと自意識が強い種類の人間なのに、それを捨てなければならないのですから。
演技が上手ければ、つまりテクニックがあれば良いわけではありません。
テクニックだけの演技にはハートが感じられないのです。
そしてテクニックに溺れると、自分の巧さに酔っている雰囲気までもが
しっかり観客には伝わっています。
それだけ人間とは細かな情報をキャッチできる動物的な面があるのです。
そんな自意識が伝わってしまうと
観ている人は、役の人物と、役を演じる役者の両方を 複眼で観ることになります。
役者の「上手く演じたい」という不安定な気持ちが透けて見えて
芝居の世界観に安心して身を委ねることができなくなってしまうのです。
芝居の世界は、もともとたくさんの「ありえないウソ」の上に成り立っていますから
その世界で実際に「生きている」人間がいないと、
ウソばればれの世界につき合わされて 観客は疲労してしまいます。
身も心も役になりきるということは 自分を手放すことなんですね。
かといって感情は本物でなければなりませんから
全く手放してしまうのも違います。さじ加減が難しいところです。
そしてもちろん、舞台に立つまでに、
役の人物像を自分の中にしっかりとつくっておかなければなりません。
なんでこんな演技指南のようなことを書いているのでしょうね(笑)
たぶん、それには訳があって、
うん、私は演技を勉強するなかで、
人間として大切なモノを たくさん学んだなあと思うのです。
そしてその中の特に大切なコトが、
今書いてきたふたつの中にある、ような気がします。
人間とは、どのような存在なのか
生き生きと生きるとはどういうことなのか
少し時間をかけて、これから探っていきたいと思います。
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ほんとうの自分(1)
http://puertita.exblog.jp/1688628/
2005-05-05T01:02:00+09:00
2015-03-21T18:47:47+09:00
2005-05-05T01:02:28+09:00
Piedrita
ほんとうの自分
この2ヶ月余り、主に不倫をされた配偶者の立場から
自分改革とか、成長とか、自分を変えるとか、書いてきました。
改革、成長、変わる.....という言葉は
実は便宜上であって、
この言葉と
この言葉に当てはめている私のイメージとは
ちょっと、いえもしかしたら、180度違います。
これを言ったら今まで書いてきたことと矛盾してしまうのだけど
ついつい、便利で分かりやすい表現をチョイスしてきてしまったのです。
でもじゃあどんな言葉が使いたかったのか.....?
今書きながら考えています。
そして実は
このテーマを書き終えたら
しばらく投稿をお休みしようと思っています。
実はblogを立ち上げたときに私が書きたいと思っていたことは
まだまだたくさんあるのですが、
今私はPCの前に居る時間よりも、
現実に私の周りにいる大切な人たちとの時間を優先したい
そう思うようになってきました。
それに
このblogを立ち上げたときには思いもよらなかったような
自分の心境の変化や夫婦関係の変化があり
自分の中にあったいくつかの問いの答えが得られ
迷いがふっきれ、
これからは立ち止まり思考し内省する自分を超えて
行動する自分でありたいという希望が少し湧いてきたのです。
また私のような心身症を抱えるものにとって
根を詰めて文章を書く行為は思いのほか疲れるものでした。
軽い気持ちで続けていければそれでいいのでしょうが
私にとっては 軽い話題は現実の友達とできるわけで
ここは自分の思いを叩きつける場所だったと思います。
ゼロか10か....という極端な性格もたぶんにあるのですが(^^;)
でも体調の悪さを押してでも、
書きたい、書きたいと走り続けた2ヶ月余でした。
このテーマがどのくらいの長さで
どのくらいの時間と労力を要するものなのかは
予想できません。
そして私が苦労して書いたところで
その内容は、よく聞くありきたりなものかも知れません。
でも単に、ほんとうに単に、私が書きたいのです。
そしてこれが書ければ何だか気が済むような気がするのです。
先に書いたように、他にも書きたいことはいーっぱいあるのですが
それはまた充電期間を置いてからでもいいなと思っています。
もしかしたらこのテーマをまとめられるのは数ヶ月先かも知れません(^^;)
書きながら考えていくたちなので、ちょっと予想できません。
それに、間につれづれ日記を挟んでおかないと
連続して書くのはきつくなってしまうかなとも思います。
逆にもしかしたら3日で書けるかも知れません。
もし3日で書けちゃった場合、その時に「お休みします」では
ちょっと急すぎるかなと思ってここでお知らせすることにしました。
一応は、閉鎖でなくお休みするつもりでいます。
お休みといってもちょろちょろUPするかも知れません。
どのくらいの充電期間になるのか
また書きたくて書きたくてたまらない日が来るのか
自分でもちょっと予測できません(スミマセン:汗)
皆さんのところへはお休み期間も
覗いたりコメントしたりすると思います ^-^
またこちらにコメントくださる方がいれば
お返事させていただきます ^-^
皆さん、自己満足におつきあいくださって本当にありがとうございます。
皆さんのおかげで得られたものがたくさんあります。
これからの記事にも
これからの私の人生にも
それは活かされると思います。
とりあえず今日は お知らせまで。
Piedrita
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カラダは 神様。
http://puertita.exblog.jp/1686514/
2005-05-04T22:13:00+09:00
2015-03-21T18:46:38+09:00
2005-05-04T22:12:59+09:00
Piedrita
心と体
誰かと会ったとき
その人が私に対して求めてるものを嗅ぎ取ろうとするクセがあった。
ちゃんと気をつけていないと
相手が期待している(であろう)反応を自動的にしてしまう。
自分のカラダの状態が細かく自覚できるようになってきたら
これは間違いなんだってことが分かった。
自分にとってクセになってる行動は その時はラク
その時はラクなんだけど 実は あとでくる。
その人と別れたあとで、すごく虚しくなってる自分に気づいたり。
私は体もばっちり連動してるのでドッと体調が悪くなる。
自然体でいなさいな ^-^
そうカラダが教えてくれている。
人と会って、精気が吸い取られるように感じるときは要注意
ラクすんな
ラクすんな
ラクそうに見えてそうじゃないんだから
自分に正直にふるまったら
相手をガッカリさせるんじゃないか、とか
相手を否定して抑えつけることになるんじゃないか、とか
心配しているね
大丈夫だよ
大丈夫。
相手を否定しないで自分のままでいられる方法
自分を殺さないで相手も活かす方法
あるからね
2人ともそのままで、流れに浮いた木の葉のように
自然にいられる方法
あるからね
私のカラダの中にいる神様は、そうおっしゃっています ^-^
そうね、神様 それがきっと 大人になるということ。
いったん 大きく 息をして
自分の中心を確かめた。
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病気が教えてくれたこと(7)---自分という不思議な存在---
http://puertita.exblog.jp/1636698/
2005-04-29T11:18:00+09:00
2015-03-21T18:44:23+09:00
2005-04-29T13:29:37+09:00
Piedrita
病気が教えてくれたこと
夫は3年経った今でも、睡眠薬を飲んでいます。
薬を飲んで寝ても、明け方には目が覚めてしまうのですが...。
症状もうつりかわり、
今は病名を云々することも無意味な状態です。
新しい症状が出るたびに検査しますが
医学的には何の異常も見られません。
ひとつ症状が消えると別の症状が出たりします。
病気についての感じ方・捉え方は、私と夫とでは違うので
夫が自分で治癒の道を見つけてくれればいいとは思っていますが
ちょっとやきもきしてつい口を出してしまうこともあります。
大抵はイヤな顔されるので見守るようにはしていますが(笑)。
なかなかおせっかいをしないでいるのは難しいです。
私自身 健康体とは言えず、慢性的な不調を抱えていますが
あまりそのことにこだわらなくなって
気持ち的には楽になっています。
過去に医師との関係で嫌な思いをしたことも
今では、自分がそういう人を引きつけていたのだと分かります。
そう、私が病気を通して得たのは、
「自分」というものを広げて考えられるようになったことです。
病気になると、自分の意志とは関係なく身体が壊れてしまって
自分の一部であるはずのカラダが急に自分に協力してくれなくなって
自分を苦しめようとしているかのように感じたり
なぜ自分がこんな目にあわなきゃいけないんだろうとか
悪いことしてても健康な人がいっぱいいるのにとか
自分がストレスを受けた人たちが私を病気に追いやったのだとか
親との関係が原因だとか
色々色々考えます。
でも、自分なのですよね。
このカラダは、自分なのです。
全部含めて、自分、なのだと分かりました。
自分という存在は思い通りになるように錯覚しがちだけど
実は思い通りにならない部分がいっぱいある。
思い通りになると思い込んでいるから
そこに苦しみが生まれるんですね。
心についてもそれは同じことで
気分、感情、性格はすべて、
常に新しく生まれ、流れ、変容していくものだと知りました。
自分のココロが思い通りになるものならば
善人でいたい、と思うだけで
ずっと善人でいられます。
でも実際は いついかなるときも善人ではいられない。
自分をとりまく環境もまた、様々に移り変わるものだから。
毎日 風の匂いも 雲の流れも うつろっているのだから。
ぬくぬくした母親の子宮から出て そんなこの世に産まれてきたのだから。
この世は変化に富んでいます。
この世では いいことも悪いことも いっぱい起こります。
ココロも、日々、刻々変化していくもので
楽しい気分も悲しい気分も 自分の意志を超えて訪れます。
自分が好ましくないと思うものも含んでいるのが 自分。
好ましくない部分を否定していたら
いつまで立っても自分のことが好きになれないと思うのです。
この世の果てまで逃げてみたところで、
「自分」から逃げることは絶対にできないのだから。
この「ワタシ」と一生つきあっていく。
この「ワタシ」で生きていく!
そんな風にどこかで腹を決めなければ、
嫌なことが起こるたびに
私は「ワタシ」を否定し
「ワタシ」から逃げようとし
「ワタシ」自信のココロもカラダも
認めてあげることができないまま生きていたと思います。
そう、自分を受け入れないことで
実は自分が 一番自分を苦しめていた。
自分を受け入れる
それは 数少ない、
自分の意志で動かせることのひとつ。
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